JSA

 

 

大学問題フォーラム

27 2002年4月10日発行

日本科学者会議大学問題委員会

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 さる3月2日(土)愛知大学車道校舎において、愛知教育大教職員組合、名古屋工業大学職員組合、名古屋大学職員組合、愛知県高等学校教職員組合、日本育英会労働組合、あいち公立学校父母連絡会、日本科学者会議愛知支部、愛知県国家公務員労働組合共闘会議の共催で、シンポジウム「大学をわたしたちの手に」-小泉改革で大学はどうなる-が開催され、120名の参加の下に、講演・報告・パネルディスカッションが行われました。大学関係者のみならず、広く高校の先生から父母の方々まで広範な市民の出席のもとにこうしたシンポジウムが開催できたことは特筆すべきことです。ここでは、池内了氏の講演内容を掲載します。

 

 

 

 

 司会者より池内氏の専門は宇宙論だが、テレビ、新聞、雑誌などで哲学から文明論にいたるまで幅広い視野で発言されていて聴衆の皆さんがよくご存知であると紹介。

 

「私たちにとって大学とは」    

 

                池内 了(名古屋大学大学院理学研究科教授)

 

1.はじめに

 

 今紹介にありましたように、私は、宇宙論というほとんど人間世界と関係しないことをやっておるのですが、ついついなんか問題があると口を出したがる悪い癖がありまして、いろんな問題で自分の意見を言う機会が多いのですが、大学問題に関してもいくつかものを書いたりしています。今回、「私たちにとって大学とは」という表題にしたのは、大学の法人化問題とかさまざまな問題に対して、もう一回原点に返ってみようと考えたためです。これは私自身の反省ですが、われわれはどうも場当たり的な対応しかしてこなかったのではないか。いろんなことに対して、各々には反応したんだけど、実際問題、本当に確信を持って、あるいは本当にこれではダメだと大きな声で言えるようなちゃんとした基盤の上でやっているのかを点検すべきと思ったのです。私自身はそうでなかったという反省もありまして、今日の話は多少原点に帰って、大学とは何だろうか、現在抱えている大学の問題点とか矛盾、逆に言えば、克服すべき課題は何であるかを考えてみようというわけです。その上に立って、今言われたようなさまざまな問題に対して対応していくこう。おそらくこの数年の間で大学は非常に大きく変化させられると思いますが、そうなった時点においても、なおかつ我々がやりうること、やらねばならないこと、それらを明確にしておく必要があるという風に私は思って、そういう話が出来たらと思っているのです。私は年をとるにしたがって、思考の経済学というばかげたことを考え、要するに、講演内容をほんの2、3日前から考え始めるという怠け者になっているんです。ただ、今回は、私も勉強せんならんということで、めずらしレジュメが講演前に出来たわけです。

 

 (レジュメの)「はじめに」というところでは、学問とは、教育とは、大学とは、大学の自治とはの4つの問いかけを基本にしてみました。大学の原点のことですが、いろんな本を読みながらそこに(レジュメ)書いてあるような、こういうものではないかというものです。もちろん人によって考えが違うと思いますが。私自身がとりあえず今日までに考えてきたことのまとめです。細かく言っていくと時間がないので、とりあえずレジュメに沿ってやります。

 まず、学問とは、「特定専門領域における一定の理論に基づいて体系化された知識と方法の総称」という風に考えてみました。そういう学問を教育する、教育とは何か。教育とは本来、学習者、つまりそれを学ぼうとする者が主体となるべきことがらです。「学習者の能力や関心に応じて学問に基づいた内容や方法を精選して展 開する」としました。ここでは学習者の能力、関心等に応じてということが重要ではないかと思います。つまり、一方的に教師が、これは大事ですよと教え込むのが教育ではなくて、学習者の能力や関心に応じて、その状況を見極めながらそこに最適なものを精選していく、ということです。

 次に、その中での大学とは、今日の一番のポイントとなろうと思っているのですが、やはり大学には2つの側面がある。1つは「人類の思想、文化的遺産を批判的に継承発展させる」こと、もう1つは「新しい時代、社会の要請に適用する学問と教育をする」ことです。おそらく、この二面性、2つのせめぎ合いという見方が現状ではできると思います。せめぎ合いどころか、一方的に押されているのかもしれませんが。

 (レジュメの)ちょっと下の方に、隅谷三喜男さんという経済学者ですが、1981年に書かれた「大学はバベルの塔か」という本があるんですが、そこで彼はすでにこの時点、1981年ですからいわゆる大学紛争が終わって静かになった頃ですね。「現代社会においては、学問・教育の効用性が重視され、その思想性や文化性が軽視されている」と言う風にこの本には書かれています。今言った2つの側面ですが、大学が思想性・文化性を継承発展させるという側面と、時代の要求に応じてそれを生かしていく、教育を生かしていく側面ですが、彼はその時代への適用性あるいは効用性のみが重視されていく流れにあることを憂いているのです。

 実は、もっと古い本で言いますと、ここには書いてませんが、1930年にオルテガ・イ・ガセットというスペインの文明評論家が「大衆の反逆」と「大学の使命」という本を書いておりますが、彼が同様なことを言っているのです。1930年というのはまさしくファッシズム・全体主義が拡がりつつあった時代ですね。その時代に、彼は「専門主義の野蛮性」という言葉を使っているのですが、大学そのものが専門主義つまり効用性のみで知性を失いつつあると言っています。これは現代と二重写しになっている。

 現在、グローバライゼーションという名の、これは私は新しいファシズムと思っているのですが、ファシズム的な背景の中で大学等を含めた文化的な状況が改変させられようとしています。オルテガは大衆が野蛮になってきていると言うのです。そして、最も野蛮になっていった大衆の典型が大 学教員と科学者である、と。科学技術の専門性にのみ閉じこもって、それの社会的な意義とか影響とかそういうことをほとんど考えなくなった大衆がいる。それが大学教員と科学者であると言っているのですが、時代そのものがある種の大きな力を持ってきたときに、ほとんど何も考えないで巻き込まれていく。そういう状況が30年代のファシズム勃興期に始まっていた。そして、80年代からの経済至上主義の流れは現代に通じています。

 大学の機能として3つのものがあり、いずれも二面性があります。1番目に研究機能があります。研究機能というのは、科学・技術も含めた文化の継承と発展、さまざまな文化としての科学もあるし、時代に適応した科学と技術もある。それらの継承と発展です。2番目に専門的な技能と理論の継承、それを通じて専門家を養成する。3番目はいわゆる教育機能。専門家養成より広い教養教育を通じての国民の教養と市民性の形成。

 要するに、通常よく言われる、大学の機能として、研究機能、専門的職業人の養成機能、そして幅広い教養教育。これはどんな本にも書いてあることですが、その各々の側面で、今言った思想的・文化的遺産を継承・発展させるという側面と、時代及び社会の要請に適用するという側面、その両面がある。その中で、教育の論理、研究の論理と書いていますが、ここに先ほど言った学習者の教育の権利・発達性の重視、これは教育機能を満たしていく上での背後の論理です。研究の論理は学問の自由と学問の体系性の重視。これも研究機能にある背景の論理です。

 いま大学に欠けているのは、研究と大学教育の関係です。いかなる大学教育を進めて行くべきか、あるいはその成果を教育や研究にどのようにフィードバックしていくか、という面での研究が、あるいは働きかけがあまりないのが実情です。名古屋大学でも高等教育センターというのがやっと数年前ほんの数人のスタッフでできました。おそらくこれはアメリカの大学に比べて圧倒的に弱い。大学自身が大学教育の中身、それを教育現場にどうフィードバックしていくかということを、そもそも高等教育論およびその機能をどう生かすかということを、ほとんどしてこなかったということがあります。

 次に、大学の自治とは何か、むろんこれも二面性、2つの側面があります。自律性:自らが自らを律していく。それによって外部からの圧力に抵抗していく。かって、教授会自治というのを大学の自治と同じように言われたことがあったんですが、いまやこれは全構成員自治という名前が使われるようになりましたが、問題は全構成員自治が本当に実現されているかです。その全構成員自治という場合、自治のもう1つの意味、自らが自らを自己統治(selfgovernance)するがあります。これは自分の考え方、自分の意識によって自らを問う、決めていく、あるいは変えていくことです。つまり、外部からの圧力に対して抵抗できる自治・自由と同時に、自らが自らの方針に従って自らを問う、自らを整備する、統治する自治の側面があります。大学の自治というのはおそらくこの2つの側面を持っていなければ本当の自治とはなりえないと思います。

 どこかの本で読んだんですが、うまい言い方なんですが、「有機的生命体としての大学」という表現がありました。大学とは生命体とよく似ている。(レジュメの)下に書いてある、生命体の特徴の1つは、種の普遍性にあります。カエルの子はカエルである。カエルからヘビ には変わらない。その固有に持っている性質は変わらない。と、もう1つは、社会環境への適応性。長い時間スケールで見れば生命は進化する、変わる。つまり、生命体は、固有に持って変わらないものと、環境・状況に応じて変わっていく側面とがある。大学も同じ2つの側面をもっている。さっきからさかんに言っていることです。今さまざまに起こっている問題はこの2つの側面がやはり忘れられている。さっきの隅谷さんの指摘ではないのですが、時代の要請に応じるという効用性が一方的に強調されているということに、おそらく現在起こっている最も大きな問題点であろうと思います。

 

2.日本の教育の変遷

 

 そこで、以上のように基本的な考えを示した上で、日本の教育の変遷というのを考えてみますと、だいたい40年ないし50年サイクルで日本の教育体制が変わってきました。明治維新から5年たって明治5年 (1872年)に学校制度が整備された。これはすごいことです。それからだいたい40年かかってやっと小学校の進学率が98%に達しました。だいたい、その頃 (1910年頃から)中等学校の整備、中学校あるいは旧制の高等学校等の整備が行われた。それでだいたい40年かかってほぼ半分46%の進学率となった。そして、戦後の1950年の出発ごろは高校の進学率は43%です。1955年頃の大学進学率は10%、現在では概ね43%。大学院進学率が現在ほぼ10%くらい。つまり戦後の55年頃の高校進学率が現在の大学進学率と同じなのです。

 何が言いたいのかというと、これだけの進学率の変化というのは、いわゆる国民(人々)に対しての大学の役割が質的に変化しているということです。これは確かなことです。かつて、明治時代の帝国大学というのは、国家の枢要な人物を養成する。要するに高級役人をつくるということでした。まさしく10%以下で非常に少ない。よく言われているのは、進学率が15%ぐらいまでがエリート養成です。国家の枢要だけではないのですが、いわゆる高級官僚、いわゆる高度な専門職業人をつくる。1950年まではまさにそれだった。

 私は1963年に大学に入ったんですが、そのときはちょうど15%(大学進学率)で、エリート教育の最後でした。その後15%から40%となり(現在の日本の進学率はすでに40%を越えています)いわゆる大学の大衆化(マス)の時代になりました。同級生の半分近くが大学へ行く時代です。これはそれ以前のエリート教育の時代と質的に異なっている。エリート教育の時は先ほどの2つの役割から言うと、これまでの思想・文化の継承・発展をエリートにやらせるという側面が強かったのが、40%になるとほとんどの学生達が社会の中で通常の職業人として働く。その意味では社会の要請に応えるという役割を担わされるのは当然です。社会の中堅を担う人をつくりだしていくのですから、当然効用性ということが大きな役割となってくる。今や40%をこえ、専修学校、いわゆる各種学校も含めると58%ぐらいになり、高校3年を卒業してすぐに就職するよりも、さらに大学なり各種学校を出て一定の技能を得てから職業につく人が半分以上6割近くで、高校3年で終了するのは少数派となっています。いわゆる大学のユニバーサル化(普遍化)時代です。

 そのような社会的な背景の中の大学であるとするならば、当然ながら社会の要請に応える部分の圧力が増えてくる。さきほどから強調している、大学は、時代とともに変化するという部分と、しかし、時代を超えて保存する部分があるはずです。今日の結論を何回も何回も言うことになりますが。

 

3.大学が抱える矛盾あるいは調和すべき課題

 

 3番目の大学が抱える矛盾、あるいは調和すべき課題に移ります。これはそのような時代背景での大学では、矛盾というか二面性というか、そのような側面が多くあります。それを考えてみたいと思います

 1つは、従来から言われている、(a)「国家の強い規制と自律性の保持」です。現在の大学、特に国立大学は非常にがんじがらめと言ってよいほどの文部科学省による法律上の縛りがある。予算の使い方とか、人の使い方とか。よく言われているのは予算は3月いっぱいに使い切らないといけない。予算が余ってこまっているけど、どうしましょうで、一斉に使うことになる。よく言われている3月に道路工事が行われるというあれと同じ。さまざまな規制がある。また、我々が将来こういうことをやりたいという概算要求を決定するのは大蔵省(財務省)です。大学の大きなプロジェクトを決定するのは財務省。我々が大学の中で順番をつけていても、それを決めていくのは財務省で、我々が決めたという実感はほとんどない。勝手に決められている。当然ながら国は莫大なお金を出している。その財政問題を通して大学を規制しようというわけです。実はこれ国が出しているのでなく、国民の税金が回っているだけなのですが。役人さん達がおれの金だというのはおかしいのだけど、彼らはおれの金だという顔をしてやっている。それに対して、ある程度世界中に及んでいる側面があるんですが、”国家は財政問題を通して大学の教育や 研究に介入している、するようになる”傾向がいっそう強くなりました。むろん、その1つの要素はやはりさきほど同級生の半分まで進学する時代となって、国家財政の中に占める高等教育予算が大きくなっていることは事実です。大きくなったとき、それをいかにコントロールするか、安上がりに済ませるかというのが政府の目標となるのです。その時に、どこを削るかとなると、当然ながら二面性のうちの効用性は残して、継承する、発展させるという文化の方を削る。どこでもそうでしょう、地方自治体で予算が不足してくると、せっかく作られた美術館、博物館を閉鎖していくという事態と同じことです。

 2番目(b)が、「伝統と革新」と書きましたが、先に述べた固有性と時代への適応性の問題です。

 3番目(c)が、大学の中での「教育と研究」の統一ということが常に言われてきた。この側面ははたして先ほどのマス化を超えたユニバーサル化の時代にどのようにして可能なのか、事実可能なのかと言う問題を考えてみる必要があります。どうしても我々大学の教員の方は、理想的な学生像を描くわけですね。「予定調和説」です。しっかりした研究をした研究者がちゃんとした講義をすれば、学生達は解るんだという予定調和説ですね。現実は残念ながらそうではない。そうではないどころか、いろいろ問題がある。だいたい大学の先生だけが教員免許がいらない。教育の訓練を一切経てないのです。私もそうですが、そのような下手な講義で予定調和的に学生の教育効果が上がっていくのか。これは幻想であって現実はどうか。現実は非常にむつかしいと私は思っています。そこで(レジュメの(c)で)研究的学習というような言葉を書いていますが、そういう側面を我々はどういう講義、どういうセミナー、あるいはどういう段階をおって進めていくのかを充分考える必要があると思います。研究と教育の統一というのは、いわゆるUndergraduate、学部学生に求めるのではなく、大学院学生に求めていくということかもしれません。大学院への進学率はは10%ですから。この問題はあとでディスカッションのところでも議論していただきたいことです。

 4番目(d)は、「学生と教師」。矛盾というかどうかわかりませんが。今ここに、「非伝統的学生」という書き方をしておりますが、やはり進学率40%近くになってきたので学生が非常に多様になってきている。最近は学力が落ちたとあちこちでさかんに書かれています。実際そうだと思います。ただし、それまでの中等教育までの積み上げの問題が非常に大きいと私自身は思っています。と同時に、当然ながら学生数が増えれば旧来の学生観は変えていかなければなりません。これはあたりまえのことであると思います。非伝統的学生というのは、不本意就学者という、オレは行きたくないんだけど親が行けと言うから入学したというInvoluntary Studentと、それとは違って目標や就職が決定できないGeneral Studentという場合があります。これは別に不本意就学者ではない。大学に来るのは本意、自分の意志で来る。しかし、自分は将来何をしていいのかを決定することが出来ない。我々はモラトリアム人間という言い方をするのですが、自分の方向、職業あるいはやりたいことが決定できずに常に目移りして決められない。そういう学生達が増えているのは事実で、私の周辺にもいます。ただ、当然ながらこれはあたりまえなのだから、それに対応した大学教育を考えなければならないと思いますが、手は打たれていません。

 もう1つは、教師そのものが研究至上主義だということです。これは現在の研究競争の中においては論文を書かないと生きていけない。研究費を取れない。研究するのが教師の第一的使命であって、教育はその次であるという意識が非常に強い。これは国立大学だけでなく、私立大学も含めて教師に非常に強い。だから、教育一本の、教育にもっぱら専念するような教師は一段下に見られる。これは非常におかしい。先ほど言った、より多様な学生達が入ってくる時代において、教師が教育を軽視して、研究にのみ没頭する、それのみを上だと思う。これは明らかにおかしい、ずれちゃっているわけですね。この側面は、今の大学が抱える矛盾というのか、非常に大きな問題点であると私自身は思っています。

 (e)として、「内部と外部」と書いてあるのは、大学の自治というのが、大学の内部の人間だけで構成する自治でいいのかということです。むろん、財界や文科省は外部から評価する人間を送ろうとしています。そういう場が必要だというわけです。今すでに運営諮問会議というのをやっていますが、国立大学の全部が運営諮問会議と いうのを作るよう文科省から言われて作っています。これはまあ、(名古屋大学でも)愛知県の副知事や中電の重役、そういった人を集めて、今のところはあまりた いしたことはないんですが、しかしながら、現在の流れは明らかに大学の自治、大学で決められる範囲を狭め、例えば学長の選出まで我々から取り上げようとしています。今度の案はそうなると思います。

 そうすると大学の中の人間で決められる部分は何であるか、さっきの言い方をすれば、時代を超えて保存すべきものは何であるかを明確にする必要があります。大学の独善性というのはむろんあるのです。先ほど少し指摘したように、研究と教育の統一とか、いくつかの面で現在の大学は反省しなければならない面が多いが、そういう問題を具体的に指摘して改善するための外部からの眼というのは実はやっぱり必要だと思います。それをいかに適切に取り込むか。先ほどの自律性という側面とGovernanceという側面があり、Governanceはチェックされて当然であると考えます。

 その自治のありようというのは、実は私はまだわかっておりません。私自身なかなかイメー ジができてないのですが、例えば、中等教育の先生方、一般の町の市民の方々、予備校の先生方が、そういう人達が、大学の運営、自治のありよう、教育の実体にタッチできるシステムが必要だと思ってはいます。時代や社会の要請と言う場合に、企業の要請ばかりが取り入れられる仕組みになっているが、そうじゃなくて、一般の市民の方々からの要請が入るような自治のありようが必要なのではないかと思うのです。むろん内部でも、今、学生達の大学自治への参加が非常に弱くなっていますが、これも実際上は大学自身が学生を大学の正当な構成員の一員であるとちゃんと位置づけしていないからです。学生による教育評価等でいつも問題になるのは、どうせ学生はいいかげんだからと、教師が呑まない、ウンと言わない。はじめは多分いいかげんでしょう。私は始めはいいかげんでしようがないいんじゃないと考えています。しかし、それでも100人分の意見が集まれば学生の評価の傾向はわかります。そういう訓練をしていくと、当然ながら学生はいいかげんでなくなる。自分は構成員であるという自覚と、それが何らかの影響を与えている、フィードバックされていくということを知れば、当然いいかげんでなくなってくる。いいかげんな学生は必ずいます。100%まともな学生ばかりではない。これもあたりまえで、時間をかけて見守りましょうと言いたいのです。その中でちゃんと構成員の一員と位置づけて、正当な権利として教育を評価するというシステムが動き出せば、それは時間がかかるかもしれないけれども有効に機能していく、学生自身も成長していくと私は思います。そのような自治のありように対する幅広い見方というのを考えてみる必要があるだろうと思います。

 

4.一般教育の充実

 

 一般教育の充実という風に書いていることは私のごく基本的な考え方で、要するに先ほど言ったように、大学はもはや同級生の半分までの学生が進学してくる場所となっている。かつての高校生と同じ、50年前の高校と同じになってきた。とすると、現在の大学がなすべき基本的な教育は、少なくとも学部段階までは一般教育を充実させることだと思っています。つまり、かつての高校教育がめざしたものを今や大学のところで求められているのです。むろん、かつての高校と同じことをやれと言っているのではありません。一般教育の本質とすべきことは「学ぶ方法を学ぶ」。例えば、何らかの問題が生じたときに、自分はそれをどのように考えていけばいいのかということを、あの本を読めばいいなとか、あの人に相談すればいいなとか、そういうどのようにしたら、今当面する問題を解決していけるのかという方法を学ぶという意味です。同時に、「価値」、つまり何が大事なのかということを判断する力を養うことです。何が大事で、何が大事でないかということを判断する能力、力を養う。つまり、「人間形成教育--学習者の自己形成を重視する」ということです。

 それから、(a)(b)(c)と書いてあるのは、例えばすでにいくつかの大学が、あるいは外国の大学でも行われていることです。一般教育というのは、例えば、ハーバード大学ではFaculty of Art and Scienceという名前なんですね。4年生の課程でArt and Science、自分がメジャー、中心になるものをArtに選ぶかScienceに選ぶ。そういう学生達が集まって基本的なことを一緒に学びながらメジャーな部分で分散していく。

 そういうようなシステムを考えていったときに、(a)専門に対する前専門教育を考える必要があります。要するに、基礎学力あるいは補助教育と言えるでしょうか。現在、中等教育と高等教育がスムーズにつながっていない、いろいろズレているのを改善する教育です。単純に言えば、我々大学教師が高校のレベルを知らない、知らずにやっている。これは実に奇怪なことです。当然この微分方程式は知っているだろうと思って講義したら、終わって始めて誰も知らなかったことがわかった、というようなことがあります。つまり、ある専門の方向に進むときに、どこまで学生達が力を持っていて、どこから進めなくてはならないか、それを調整する教育が必要なのです。

 2番目は、(b)専門に対する非専門の教育。専門というのは、英語でメジャーと言われているのですが、Art and Science日本流に言うと文理学部なら、自分は主として文をとるか理をとるか、理の方で物理をとるか化学をとるか。まあ、そういうものです。さらに、専門とは離れた非専門を選ばせる。普通ダブルメジャーと言いますが、自分は天文学と歴史学をやる、物理学と経済学をやる、そういうダブルメジャーで文理の視点で学問の歴史性や多様性を学ぶことをねらいとするのです。

 3番目として(c)専門分化に対する学際的・総合的教育。これはコアカリキュラムという言い方をします。例えば、物理学を選んだときに、当然ながら科学史のようなものを含める。あるいは、物理学が応用されてさまざまな技術が作られていますから、周辺のどのような形で学問の成果が社会的技術として生かされているか、使われているか、その問題点は何かを考えるためです。何かある1つの専門を得たときに、それに関わる幅広い領域の分野を4年間かけてやる。このようなコアカリキュラム、つまり専門に関わる周辺の幅広い学際的領域を、一貫したカリキュラムで4年間かけて、さまざまな分野を学ぶ。

 以上は、私自身が現代のユニバーサル化した大学で、意識的に進めていく必要があるのではないかと考える一般教育です。それが、大学の固有な部分と社会の要請に基づいて変わるべき部分の双方を含みうる高等教育ではないかと思っています。

 先ほどから強調している、大学の変わらない部分と変わるべき部分の2つの側面の、変わるべき部分が一体誰の要請によって行われているのかが問題です。今、ほとんど経済論理一辺倒になっています。でも、経済論理という言い方すらあまりよくなくて、要するに「大学が札束でほっぺたを叩かれている」のかもしれません。それはそれでしょうがないのかもしれませんが、しかし、ここで提案したようなことは、そういう時代にあっても、大学が、我々が変わるというのはこういう側面ですよ、こういう側面をやりましょう、と言いたいのです。法人化されても、今言ったような事柄は、必ずやるべき事柄であると思っています。それが本当に国民の負託を得て責任を持ってやれる部 分ではないかと私は思います。「私たちにとって大学とは」、これまでの思想的・文化的遺産を継承・発展させる場であるということです。同時に、社会的な要請の中で、変わるべき部分としては、マス化し、さらにユニバーサル化した大学の中での教養教育、一般教育、市民、人間をつくる教育というものをどのように変えていくのかということではないかと思っています。


シンポジウム「大学を私たちの手に」

私たちにとって大学とは

池内 了(名古屋大学)

1. はじめに

 学問とは:特定専門領域における一定の理論に基づいて体系化された知識と方法の総称。

 教育とは:学習者の能力・関心等に応じて、学問に基づいた内容や方法を精選して展開

      すること。

 大学とは:人類の思想・文化的遺産を批判的に継承・発展させるとともに、新しい時代

      ・社会の要請に適応する学問・教育をすること。

(1) 研究機能:文化(科学・技術)の継承と発展

(2) 専門技能および理論の継承・開発、専門的職業人の養成

(3) 教育機能:教養教育を通じての国民の教養と市民性の形成

 教育の論理:学習者の教育の権利・発達性の重視

 研究の論理:学問の自由と学問の体系性の重視

 教育と研究の関係:大学教育に関する研究の推進と、その成果を教育や研究にフィード

          バックする

 「現代社会においては、学問・教育の効用性が重視され、その思想性や文化性が軽視さ

 れている」(隅谷三喜男、「大学はバベルの塔か」1981年)

 大学の自治とは:自律性(外部の圧力から守る)と自己統治(自己の意識により自己を

 統御する)

 「有機的な生命体」としての大学

    固有性(種の普遍性)と社会環境への適応性(生命の進化)

 

2. 日本の教育の変遷

 1872年学校制度――>40年かかって小学校に98%の就学率

 1886年帝国大学令 「国家の須要に応じる」

 1910年頃から中等教育の整備――>40年かかって46%の進学率

 1950年の高校進学率43%

 1953年新制大学の完成――>高等教育に進み接近することを国民の権利と自由と

               して確立し保障する

 1955年の大学進学率10%

 現在、高校進学率97%、大学43%、専修学校15%、大学院10%

 大学進学率15%まで:エリート育成

   15-40%:マス(大衆)化

    40%以上:ユニバーサル(普遍)化

 

 大学が時代とともに変化する部分と

  時代を超えて保存すべき部分を考える必要

 

3. 大学が抱える矛盾あるいは調和すべき課題

 (a)国家の強い規制と自律性の保持

     国家は財政問題を通して大学の教育・研究に介入する時代

 

 (b)伝統と革新

     固有性と時代への適応性

     文化的・思想的遺産の継承・発展と時代の要請に応える

 

 (c)教育と研究

     理想的学生像・予定調和説

     研究的学習

 

 (d)学生と教師

     非伝統的学生(不本意就学者、目標や職業が決定できない)

     教師の研究至上主義(教育は評価されない)

 

 (e)内部と外部

     外部に開かれた大学の自治のありよう

 

4. 一般教育の充実

学ぶ方法を学ぶ

「価値」(何が大事か)を判断する力量を養う

(人間形成教育――学習者の自己形成を重視する)

 

(a)専門に対する前専門の教育――基礎学力、補充教育

   (中等教育との関連性・持続性)

 

(b)専門に対する非専門の教育――ダブルメジャー、副専攻

   (文理の視点、歴史性、多様性)

 

(c)専門分化に対する学際的・総合的教育――コアカリキュラム

   (専門教育と一般教育を統合した一貫カリキュラム)