JSA

 

 21 2001年 4月 6日発行

 

  大学問題フォーラム

日本科学者会議大学問題委員会

 

 

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シンポジウム報告

 

「21世紀教育新生プラン」を斬る

-教育改革のために今、何が必要か-

 

 

日本科学者会議大学問題委員会・科学と教育研究委員会主催のシンポジウム「「21世紀教育新生プラン」を斬る-教育改革のために今、何が必要か-」が、2001年3月24日(土)13:0016:00、東京工業大学にて開催された。報告は、「教育改革関連法案の論点」(三輪定宣[千葉大学、大学問題委員会])と「教育基本法の目的を理科教育で達成するために」(岩田好宏[千葉支部、科学と教育研究委員会])であり、司会(山辺真人、東京支部)のもとで、これをめぐり活発な質疑討論が行われた。ここでは、二つの報告の概要を掲載する。

なお、「プラン」は、さまざまな大学問題を含み、法律改正や予算措置等により、政策的に推進するプログラムが具体的に示されている。例えば、大学入学年齢制限の撤廃(法律改正。以下、○記)、夜間・通信制大学院の促進(○)、大学の社会人受け入れ拡大、放送大学の大学院設置、AO入試など大学入試の多様化、大学9月入学、暫定入学制度、学部3年からの大学院入学促進(○)、インターシップ制促進、プロフェショナル・スクールの整備、大学院入試の完全オープン化(社会人受け入れ促進)、科学研究費の競争的資金の拡充、奨学金等の教育・研究基盤整備、留学生受け入れ整備、組織・編制の弾力化(○)、独立行政法人化の検討、教員任期制等流動化促進(○)、教養教育充実、ダブルメジャー(複数分野専攻)導入、RT(リサーチ・アシスタント)・TA(ティーチング・アシスタント)の充実、ITの活用、教員の教育力向上とその評価システムの構築、厳格な成績評価、教育基本法の見直し、教育振興基本計画の策定、などである。

これらの大学問題は、政府の「教育改革」の原理や構造の大学的側面であり、高校以下の問題との関連で総合的に検討されなければならない。今回のシンポジウムでは、通常国会に提出された教育改革関連法案と教育基本法見直し問題に焦点をしぼり、その論点・視点を深めることを課題とした。


報告T 教育改革関連法案の論点

 

三輪 定宣(千葉大学、大学問題委員会)

 

 

 文部科学省は、2001年1月25日、「21世紀教育新生プラン」を発表した。これは、教育改革国民会議報告(以下、「報告」という。)「教育を変える17の提案」(2000年12月22日)の実施プランである。その重点は、「レインボープラン<7つの重点戦略>」にまとめられ、その「第1ステージ」として緊急対応事項について「教育改革関連法案」が通常国会に提出され、「第2ステージ」として「教育基本法の見直し、教育振興基本計画の策定」が予定されている。以下、「報告」との関連を中心に教育改革関連法案の論点を指摘する。

1.教職員定数等標準法

「報告」の「授業を子どもの立場に立った、わかりやすく効果的なものにする」(政策課題14)ための施策として、「公立義務教育諸学校の学級編制及び教職員定数の標準に関する法律等の一部を改正する法律案」が提出される。それは関連6法案のなかでも最重点法案であり、小中学校・高校の「40人学級」を維持する本法案に対し、野党(民主党、共産党、社民党など)は、衆参両院で「30人学級」法案を対置してこれに反対している。私は、この法案に関し3月29日の参議院・文教科学委員会で参考人意見陳述を行う予定である(後日、実行。議事録参照)。その論点は以下の通りである。

@「40人学級」基準の維持(3条)

「報告」の「一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する」(政策課題6)方策のひとつに「少人数教育の実施」があげられているが、「40人学級」は現状維持のままである。日本教育学会のチーム(三輪含め総勢33名)は、最近3年間、科学研究費の交付を受け、「学校・学級の適正編制に関する総合的研究」を行った。その結論は、「学級規模の標準は、20人程度とすべきである。」という提言にまとめられた。諸外国では2030人以下が普通であり、諸調査では、教員、父母ともに89割が30人以下を、67割が25人以下の学級を望んでいる。政党では自民党を除きほとんど30人以下学級、自民党でも千葉県連は25人である。財界では、経団連(経済団体連合)が2030人程度(96年)、社会生産性本部が20人程度(99年)、自治体では、2001年3月現在、全国3279自治体のうち、過去4年間に1578自治体・48.1%が30人以下学級を国に求める意見書・決議を採択し、千葉県議会は全会一致で25人学級の要望を決議している。要するに、30人以下学級の国民的コンセンサスは熟しているといえよう。

A都道府県の「40人学級」を下回る基準設定(3条2項3項) 

地方分権・機関委任事務廃止のもとで、それは当然の措置であるが、国庫負担金・地方交付

税等の財源措置が伴わず、今日の自治体財政の危機的・破局的状況では、実施されても局所的、しかも、自治体の財政力による格差は避けられず、そうなれば、どの子も居住地域にかかわらず、ゆきとどいた教育条件を平等に受けるという教育の機会均等に反する。また、それを理由に自治体裁量を実質的に認めない行政指導が行われている。

B少人数の集団の指導の加配措置について(7条) 

「少人数教育の実施」は小中3教科だけでなく、すべての学校、学年、教科で必要であり、大きな限界がある。3教科でも、ごく一部の実施にとどまる。しかも、それが生活集団と学習集団を分離し、クラスを解体して行われるならば、学級づくりを困難にし、学習の効果を妨げる。それが「習熟度集団」に編制して行われれば、実質的に能力差別を生み、学級崩壊を制度的に助長するであろう。その加配はヒモつきになり、学校現場の実態、必要性や要求に即した最適な利用を妨げことが懸念される。

C非常勤講師の任用拡大(17条2項) 

「報告」の政策課題11の「教員の雇用形態や採用方法の多様化」の具体化として、いわゆる「定数くずし」の制度が導入される。それは正規教員定数を複数の非常勤講師に換算、分割し、その人件費の国庫負担を新設するものであり、経費節約等のため非常勤講師が従来にもまして乱用されよう。

D教職員の多忙改善措置 

この教職員定数改善には、そのオーバーワーク・多忙・過労状況の改善措置が欠け、超過勤務、授業時数の軽減、権利行使などが考慮されていない。

2.地方教育行政法

「報告」の「教師の意欲や努力が報われ評価される体制をつくる」(政策課題11)の具体化のため、指導不適切教員の転職規定が分限処分規定(地公法27,28条)の特例として新設された(47条の2)。都道府県教育委員会は、児童生徒への「指導が不適切」であり「研修等必要な措置」後も指導が不適切な教員について、教育職以外の常勤職に転職させることができる旨の規定である。「指導が不適切」の解釈、判断いかんでは、教員の分限処分の恣意的拡大の根拠となりかねない。

高校の通学区域指定の規定が削除された(50条)。これにより学区制を廃止し、都道府県全体を1学区とし、学校選択の自由を全域に拡散することも可能となる。学校格差の拡大、受験競争の激化を助長する制度の整備である。

教育委員の構成の均衡や保護者の選任(4条4項)、会議の公開(13条)、教育行政の相談担当職員の配置(19条)、市町村教育委員会の人事内申における校長の意見具申用件(38条)などは、開かれた教育行政のために一歩前進といえよう。

3.学校教育法

「報告」の焦点である「奉仕活動を全員が行うようにする」(政策課題3)に基づき社会奉仕活動、自然体験活動等の体験活動の実施努力を盛り込んだ新規定であり、社会教育関係団体等との連携を求めている(18条の2)。同報告の審議過程で論議を呼んだ18歳の奉仕活動の義務化は見送られたが、小中学校・高校では学校ぐるみの実施が強力に推進されよう。問題の本質は、これらの体験活動が戦前の「勤労動員」「勤労奉仕」のように集団訓練・思想統制の手段になりかねない危険性である。

同じく「報告」の焦点である「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない」(政策課題4)措置の具体化として出席停止規定が補強され、停止措置の法的根拠が明記された(26条)。それは、児童生徒・教職員に対する「傷害、心身の苦痛」、「財産の損失」、施設設備の「損壊」、授業等を「妨げる」行為である。そこには少年法改正による厳罰主義と同様に子どもへの制裁の強化が意図されている。出席停止の法的性質は、本来、問題を起こした児童生徒への懲戒ではなく、他の児童生徒の教育を受ける権利を保障するための措置であり、これらの行為が即出席停止要件とされてはならず、また、その措置の場合も懲戒とならないよう当該児童生徒に対する事前事後の指導を含め慎重な配慮、運用がのぞまれる。

また、「報告」の「一律主義を改め、個性を伸ばす教育システムを導入する」(政策課題6)に対応してあらゆる分野に大学・大学院入学の飛び入学を拡大する(56条、67)。その他、大学の夜間・通信教育学部設置(52条の2外)、特別功労者への名誉教授号の授与(68条の3)、寮母の「寄宿舎指導員」への改称(73条の3)の規定が設けられる。

4.社会教育法

「報告」の「教育の原点は家庭であることを自覚する」(政策課題1)に即し、教育委員会の事務として家庭教育を明記し(3条2項、5条七号)、また、同じく社会奉仕活動、自然体験活動の規定を新設した(5条十二号)。社会教育主事の資格を緩和し、社会教育に関係する職、同事業・業務に従事した者に拡大した(9条の4の1項)。

5.国立オリンピック記念青少年総合センター法

同センターの業務として、青少年団体の助成、自然体験活動、社会奉仕活動等を追加し(10条7号)、そのための基金を設立する(12条)。

6.国立学校設置法

医療技術短大(徳島、長崎)を廃止するほか(3条の5)、「報告」の「大学の組織編制の弾力化」のために学部の講座・学科目の省令規定が廃止される(7条)。

 

 

 

 

 

 

 

報告U 教育基本法の目的を理科教育で達成

    するために

 

岩田 好宏(JSA千葉支部、科学と教育研究委員会)

 

 

1.教育基本法の問題は、そこで明確にされている教育の基本原理を教育の隅々まで染みとおらせるにはどうしたらよいかということである。理科教育を例に考えるならば、理科教育は、教育基本法に示されている教育の目的をどうすれば実現できるかということになる。このことを具体的に考えてみたいと思う。

 戦後、教育基本法が制定されて、これを理科教育を進める上での、文字とおりの基本原理としたのは、戦後間もなくの一時だけであった。それは、戦前の理科と比べて大きくちがうものであった。それにもかかわらず、科学教育を強く望む人たちから「科学を教えようとしていない」ときびしい批判を受けたのは、科学とその教育に対する考え方に大きな差異があったからである。

 戦後の学校制度改革にともなって、1947年に生まれた新理科は、小学校・中学校では一般普通教育の理科、高校では大学の準備教育としての理科という形で出発した。

 高校理科は、この点で戦前の中等学校の理科の基本的な性格を踏襲するものであったが、内容的には刷新された。自然諸科学の成果を取り入れるという姿勢がみられ、自然科学の分化にほぼ対応させて四つの科目を設置し、それぞれの分野のそれまでの成果を比較的よく取り入れて学習内容とした。それらは、大学に進んでからの学習に必要な基礎的な内容を学ばせるというものであった。

 しかし、小学校理科だけは、1941(昭和16)年にそれまでのものが大きく改変されて生まれた国民学校理科をほとんどそのまま受け継いだものであり、科学教育の片鱗さえもみられず、現在まで引き継がれている。

 新設された中学校理科は、新教育の発足として努力がもっとも集中的に傾けられたところで、そこには「科学教育」として新しく出発するという意識が強く反映されていた。戦前の非合理的な生活習慣と神話的世界観によって統制された中で生きていたことがいかに非人間的なことであったかの反省に立って、民主主義と合理性の原則のもとに生活を成り立たせるために、新理科は生まれた。それは、簡単にいえば、生活を科学的に営むという基本方針に基づいた教育であった。このかぎりにおいては、新理科は、批判されても否定されるものは全くなかった。

 しかし、1958年の学習指導要領改定をもって政府自身の手によって姿を消した。その理由は明白であった。1950年からの朝鮮戦争の頃から、日本の基本政策に大きな転換がみられ、民主主義的復興の国策にかわってうち出された経済復興の国策の基盤に技術開発が重要な柱となり、それに合わせて理科は変質させられた。高校理科は、高校進学率が大幅に上がって変革が求められていたにもかかわらず、大学準備教育としての質が温存され、中学校理科は高校準備教育としての理科に変質した。加えてどちらも地獄とも呼ばれるようになった受験競争体制の道具と化した。以後政府の理科教育政策についてのこの方針はかわることなく今日まで理科を強く規定している。それは、科学と技術を明確に区別することなく、したがって相互の関係を曖昧にし、科学を技術に隷属化させるものだった。それは、具体的には、子ども・若者の認識過程を無視し、科学の成果を科学的な明確な基準なしに個別的に学習内容として示すという形で現れている。

 1947年に生まれ1958年に消えた新理科の科学教育は、「生活単元学習」の理科という名が付けられたが、政府とは別の理由で科学教育を重視する人たちによって批判され、否定された。生活単元理科を強く支持した側もそれを批判した側も、子どもを大切にし国民のための教育を考えていたにもかかわらず、決定的な対立を生み、「生活単元理科」の滅亡を許した。批判される側に批判されるだけの問題があったが、批判が、生活単元理科の積極的な側面を評価することなく否定へと転化したことも重大な失策といえよう。

 生活単元理科批判の根拠は三つあった。一つは新理科を教えている教師の側から示された。教えにくく、子どもは学びにくいというものであった。子どもの認識・理解の過程に即しての学習の順次性の重視からの批判である。そこから教材の系統性が望まれた。生活を科学的に営むことは、科学の高度なことも学びやすい初歩的なものも混在し、物事の諸側面が複雑に絡み合って問題となり、子どもにとっては学びにくいことはたしかであった。第2は主として教育学者から出された。生活単元学習が社会や生活の変革を視野におくことなく基本が教えられず、現状順応型の教育であると批判した。第3の批判は、自然科学の基礎を教えることができないというもので、自然科学者・科学史家から出された批判であった。

 生活単元理科の積極的な面とは、すでにふれたが、基本的には教育基本法の第一条の教育の目的と科学を学ぶこととをつなげて理科のあり方を、未熟ながら具体的に示したことである。生活単元理科に対する三つの批判は受け入れなければならないものであったが、生活を単に消費生活に限定することなく、もっと広く人間の存在様式とみるならば、科学は生活と対置されるものではなくその一部である。基本的には生活全体に対して奉仕的な役割をはたすものであり、生活と科学との関係の学習は不可欠なものである。これには、教育基本法と科学を教えることを生活を介し結びつけるという考え方が不可欠である。

 

.「理科教育は、何のためにあるのか」。この問いに対する解答を得るには、大きくいって、二つの側面から迫らなくてはならないだろう。一つは、子ども・若者の側からの視点から考えることである。本当の意味で、どのようなことを理科に望んでいるのかを明らかにすることである。第2の側面は、私たち市民・父母・教師が、子ども・若者に学ばせたい大事なこととは何かということを明確にすることである。

 この二つは、実際の学び・教えの場面では統一されねばならない。しかし、私たち市民・父母・教師と子ども・若者では、その生活と歴史にちがいがある。私たちおとなは、それぞれの歴史の中で、人類の歴史を受けとめて、そこから学ばせる目的・内容を考え出してくる。子ども・若者は、現に「今を生きる」というところから学ぶ要求を発見するにちがいない。このちがいは避けられないことであるが、またそのことによって教育の意味がある。教育は、前世代と次世代とのかかわりの中で、次世代である子ども・若者が育つことであるという意味で歴史的営みである。私たちおとなができることは、人類の歴史を背負って子ども・若者にはたらきかけることである。こうみれば、差し当たってしなければならないことは、大事なことの第2の側面である。これは、二つの視点から追究する必要がある。

 

3.理科で、私たちが学ばせたいことは何か。それを考える第1の視点は、理科をふくめて、教育全体は子ども・若者に何をすることなのか。何を目的として教育するのかという視点から、理科教育を位置付けることである。第2の視点は、人間の自然との関係において、現実に起こっている社会的問題を将来に向けてどう克服するかという現実の社会的課題に、教育はどう応えるかという視点である。将来は、現実の問題の解決の延長として生まれてくるのであるから、環境問題や人口問題、食糧危機、資源枯渇の問題など、人間の自然との関係の中で、現に起こっている問題のうち、その克服が基本的で将来展望につながる歴史的課題を明確にし、そこから理科教育の課題を明らかにするという視点である。教育は、子ども・若者に将来に対する明るい展望をもたせることである。それが空理空論でおわるのではなく、リアリティをもたせるには、この方法以外ない。

 

4.第1の視点の、教育全体の目的から理科教育の目的を考えるのは、極めて簡単なことである。それは、教育基本法第1条に明確にされているからである。教育基本法第1条(教育の目的)は、50年以上前から私たちにつぎのように語り続けてきた。

 「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われねばならない」

 ここでいう「完成すべき人格」とは、「平和的な国家及び社会の形成者」としての人格であり、これに続く文面は、そのための教育的要件を明確にしたとみることにができる。これは、要約すれば、「平和と民主主義実現」という社会的課題に対して教育の側から応えるということが核となっている。これを、個人・地域・国・世界全体に貫かれたものとして理解すれば、法的に明確にされているだけでなく、教育の基本理念として世界の全ての人々が共有できるものであり、達成尊重しなければならないものである。むしろ、これを目的にしない教育は、公教育とは認めがたいともいうことができる。

5.これに対して、自然に関する教育は、どう応え、固有の目的を探したらよいかというのが、理科教育の目的論である。それは、「争いなく、一人ひとりが幸せになるための、自然的基盤を確立する」という社会的課題に対して、教育の側からどう応えるかということになるのではないか。

 しかし、この目的を達成するためには、自然教育や自然科学教育だけでなく、環境教育のほか、日本の一般普通教育の中では軽視されている産業教育、技術教育、あるいは医療と健康の教育、家庭や男女性の教育、歴史教育や政治・経済の教育などほとんど全ての教科教育が関与することになる。文学教育や数学教育をふくむ芸術教育も関係している(これに対置されるものは、「争いなく、一人ひとりが幸せになるための、社会的基盤を確立する」という課題に対する教育の役割ということになる)。

 したがって、従来の理科教育に対応する自然に関する教育(かりに自然科教育と呼ぶことにする)の目的を考えるとなると、この目的をそのまま引き継ぐわけにはいかない。この目的は、自然に関する教育を軸にした諸教科の連関の中で実現されるべきものである。自然科教育は、それだけにしかできない特質を明確にしながら、それとこの目的との結合によって、その独自の目的を考えねばならない。自然科教育は、教育基本法に示されている教育全体の目的をその固有の目的において具体化することが必要となる。

 

6.こうした自然に関する教育の具体的な目標、学習させる内容を考えるには、つぎの二つの視点が考えられる。一つは、学校での学習は、社会に出てから実際の生活に役立つという意味での基礎的素養の育成する位置にあるとするならば、産業教育・環境教育などにおいて取り組まれる現実の社会的課題についての学習とその基礎部分との結合である。

 

7.第2の視点は、歴史的視点である。すでに述べたような意味において、教育は社会の歴史的な営みであるが、また、現在を歴史的にみるという点にもある。つまり、現在は過去からの歴史的な帰結としてあるとともに、これからの歴史の出発点でもある。自然に関する教育を自然および人間と自然のかかわりの歴史という形で進めることによって、「争いなく、一人ひとりが幸せになるための、自然的基盤を確立する」という将来に対する展望を明らかにするという視点である。

 戦後の日本における理科教育は、小学校のものを除けば、これまで科学教育を考慮して進められてきた。それは、戦前の理科と比べて大きくちがうものであった。それにもかかわらず、科学教育を強く望む人たちから「科学を教えようとしていない」ときびしい批判を受けたのは、科学とその教育に対する考え方に大きな差異があったからである。

 戦後の学校制度改革にともなって、1947年に生まれた新理科は、小学校・中学校では一般普通教育の理科、高校では大学の準備教育としての理科という形で出発した。

 高校理科は、この点で戦前の中等学校の理科の基本的な性格を踏襲するものであったが、内容的には刷新された。自然諸科学の成果を取り入れるという姿勢がみられ、自然科学の分化にほぼ対応させて四つの科目を設置し、それぞれの分野のそれまでの成果を比較的よく取り入れて学習内容とした。それらは、大学に進んでからの学習に必要な基礎的な内容を学ばせるというものであった。

 しかし、小学校理科だけは、1941(昭和16)年にそれまでのものが大きく改変されて生まれた国民学校理科をほとんどそのまま受け継いだものであり、科学教育の片鱗さえもみられず、現在まで引き継がれている。

 新設された中学校理科は、新教育の発足として努力がもっとも集中的に傾けられたところで、そこには「科学教育」として新しく出発するという意識が強く反映されていた。戦前の非合理的な生活習慣と神話的世界観によって統制された中で生きていたことがいかに非人間的なことであったかの反省に立って、民主主義と合理性の原則のもとに生活を成り立たせるために、新理科は生まれた。それは、簡単にいえば、生活を科学的に営むという基本方針に基づいた教育であった。このかぎりにおいては、新理科は、批判されても否定されるものは全くなかった。

 しかし、1958年の学習指導要領改定をもって政府自身の手によって姿を消した。その理由は明白であった。1950年からの朝鮮戦争の頃から、日本の基本政策に大きな転換がみられ、民主主義的復興の国策にかわってうち出された経済復興の国策の基盤に技術開発が重要な柱となり、それに合わせて理科は変質させられた。高校理科は、高校進学率が大幅に上がって変革が求められていたにもかかわらず、大学準備教育としての質が温存され、中学校理科は高校準備教育としての理科に変質した。加えてどちらも地獄とも呼ばれるようになった受験競争体制の道具と化した。以後政府の理科教育政策についてのこの方針はかわることなく今日まで理科を強く規定している。それは、科学と技術を明確に区別することなく、したがって相互の関係を曖昧にし、科学を技術に隷属化させるものだった。それは、具体的には、子ども・若者の認識過程を無視し、科学の成果を科学的な明確な基準なしに個別的に学習内容として示すという形で現れている。

 1947年に生まれ1958年に消えた新理科の科学教育は、「生活単元学習」の理科という名が付けられたが、政府とは別の理由で科学教育を重視する人たちによって批判され、否定された。生活単元理科を強く支持した側もそれを批判した側も、子どもを大切にし国民のための教育を考えていたにもかかわらず、決定的な対立を生み、「生活単元理科」の滅亡を許した。批判される側に批判されるだけの問題があったが、批判が、生活単元理科の積極的な側面を評価することなく否定へと転化したことも重大な失策といえよう。

 生活単元理科批判の根拠は三つあった。一つは新理科を教えている教師の側から示された。教えにくく、子どもは学びにくいというものであった。子どもの認識・理解の過程に即しての学習の順次性の重視からの批判である。そこから教材の系統性が望まれた。生活を科学的に営むことは、科学の高度なことも学びやすい初歩的なものも混在し、物事の諸側面が複雑に絡み合って問題となり、子どもにとっては学びにくいことはたしかであった。第2は主として教育学者から出された。生活単元学習が社会や生活の変革を視野におくことなく基本が教えられず、現状順応型の教育であると批判した。第3の批判は、自然科学の基礎を教えることができないというもので、自然科学者・科学史家から出された批判であった。

 生活単元理科の積極的な面とは、すでにふれたが、基本的には教育基本法の第一条の教育の目的と科学を学ぶこととをつなげて理科のあり方を、未熟ながら具体的に示したことである。生活単元理科に対する三つの批判は受け入れなければならないものであったが、生活を単に消費生活に限定することなく、もっと広く人間の存在様式とみるならば、科学は生活と対置されるものではなくその一部である。基本的には生活全体に対して奉仕的な役割をはたすものであり、生活と科学との関係の学習は不可欠なものである。これには、教育基本法と科学を教えることを生活を介し結びつけるという考え方が不可欠である。