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『68 年間砲弾破片を体内に保持して生きた旧日本陸軍最下級兵士の見た戦争』まえがき


 2012年9月に92歳で死亡した実父、岩﨑清は、赤紙で招集された旧日本陸軍の最下級兵士でした。昭和19年3月のパラオ空襲で受傷した砲弾破片を多数、体内に保持したまま、この齢まで生きた訳です。死亡直後に撮影された全身レントゲン写真、火葬後に見付かった砲弾の写真と、受傷時の模様を生前、1994年、74歳時に手記にしてあったものをご紹介致します。
 昭和19年2月、当時でも一番安物だった戦時標準D型船、忠洋丸(表紙)の初航海でパラオ諸島に派兵されました。当時パラオは、国際連盟の委任統治領で、コロール島には連合艦隊司令部があったのですが、3月29日夕方、この武蔵を旗艦とする連合艦隊があっという間にいなくなり、翌朝早朝から、米空軍の空襲に見舞われました。この日、1日で延べ1500機が、空が暗くなるほど舞い、広島を出るとき、これで2ヶ月は戦ってこいと言われたタマを僅か1日で使い尽くした。幸い海軍から、広島で受領した量の20倍のタマをいただき、翌日の米軍空襲に応戦しましたが、9時30分に直撃され、全員が吹っ飛ばされました。自分の上に吹き飛ばされていた人の血がポタポタ当たるので気が付いて這い出したときには、左半身が利きません。その後、死者の救命胴着を着て海に飛び込み、出血のためにたびたび意識を失っていましたが、同じ船の船員が、「眠るな」と声をかけ頭を叩きながら、近くの無人島に避難させてくれたらしい。包帯交換50カ所に及ぶ重傷を負ったが、一命を取り留めました。

 本書の構成は、「父の手記」と「父がこれを書いたとき、私が質問したこととその答え」からなっています。
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