JSA

☆以下の見解は、日本科学者会議大学問題委員会が2001年12月27日付発表、同日、内閣総理大臣、文部科学大臣、学術会議会長および関係団体、報道関係各社などに郵送しました。


地域に根ざす教員養成を破壊する教員養成系大学・学部の統合・再編に反対する

「国立の教員養成系大学・学部の在り方に関する懇談会報告書」に対する見解


2001年12月27日     日本科学者会議大学問題委員会 

 文部科学省の「国立の教員養成系大学・学部の在り方に関する懇談会」(以下「在り方懇」と略称)が11月22日にまとめた最終報告は、各都道府県に教員養成系大学・学部を設けてきた原則(都道府県設置原則)を覆し、現在の半数以下に再編・統合するという内容となった。明治以来百三十年間にわたり、各県の教員養成の多くはそれぞれの国立・公立の養成機関によって実施されてきたが、県によってはそれがなくなるという、教員養成の在り方を根底から揺るがす大問題を「審議会」ではなく、高等教育局長の裁定でつくられた「懇談会」で方針を立て実施しようとしている。「在り方懇」発足の目的が「長期的な観点に立った国立の教員養成系大学・学部の在り方に関して懇談を行う」とされ、「始めに統合・再編ありき」ではないことを確認して出発したにもかかわらず、「遠山プラン」の登場によって一挙に覆され、「始めに統合・再編ありき」という文部科学省の既定方針が貫かれたものである。
 一方、文部科学省初等中等局教職員課は、同じ「懇談会」レベルの調査検討会議でこの8月、「教員養成等における大学と教育委員会の連携の促進に向けて」の報告書を出している。各大学がその立地する県の教育委員会との連携を推進するべく努力している矢先に、県によっては教員養成学部が無くなることを想定した「在り方懇」の報告書が出るという、一貫性・統一性に欠けた文部行政は一体何なのか。

 危惧されるとおり、教育学部が無くなる県では「地域密着型」のきめ細かい教育・研究はできなくなる。報告書には、再編・統合について大学が立地する地域の実情が全く考慮されていない。「交通網の発達」や「情報通信技術の発展に伴う遠隔教育の導入・普及」があるから「教員養成を現状のまま、すべての都道府県において行うことの必要性は薄れつつある」と断定している。教員養成で「遠隔教育」がどれほどの役に立つのだろうか。交通費や交通時間などをどう考えているのだろうか。比較的密集した地域と広域に拡がった地域の差などほとんど考慮されていない。
 一般的に教員養成系大学・学部の学生は、多くは地元出身者であり、地元出身者が地元の子どもを教えるということの意味は「地域に根ざした教育」をすすめるうえで過小評価できないし、特に小学校教員の現場では、地元に詳しい教員が求められている実情がある。また、それぞれの県は近世以来のその地域での教育を何らかの形で受け継ぎ、教員は県の独特の文化、県民性の中で育まれてきた側面は見逃せない。

 統合・再編後の施設の一つとして「教職センター」が例示されているが、その内容についての議論や検討もなく、十分な地域支援の機能を想定したものとなっておらず、統合・再編に伴う問題を処理する補完的なセンターにすぎない。「各都道府県から教育学部が無くなると取り返しのつかないことになる」との各大学や地方教育委員会からの危惧に対して、「その時はその時で考えればよい」という文部官僚の言は無責任きわまりない。さらに、ある大学が教育委員会からの要望書をもって文科省に陳情すると「それなら地方移管しろ」と脅迫されたという。国立大学長懇談会の席上でも、「長い歴史と伝統をもち地域との連携が密な教員養成の統合・再編は慎重に」という意見に対し、「地方密着型をいうなら旧師範のように県立大でやれということになる。広域型でパワーアップだ」と工藤高等教育局長はまさに脅し文句を吐いている。このように、地域の必要性や大学の自主改革の視点がないまま、強権的な統合・再編を強要しようとしている。

 問題の焦点の一つである、学部の規模は、養成する教員の資質、内容や方法によって自ずから決まってくるものである。報告書にあるのは「大きくなればパワーアップする」という単純な発想でしかなく、5000人削減で大幅に削ったあげく、100名以下の教員養成は問題だと切り捨てるさまはおよそ「だまし討ち」そのものである。統合で規模を大きくするよりも、少人数制にしてきめ細かい指導を図る方が力量ある教員の養成につながるとの指摘も多く、一概に大規模化して資質向上になるかは疑わしい。学部規模の学問的な分析を懇談会でおこなった形跡はみられず、統合の唯一のメリットは予算削減という点でしかない。
 教員養成規模「一万人体制」を維持するとの方針であるが、首都圏・近畿圏などでは、教員需要は来年度に急増し、さらに将来に大幅な需要が見込まれる。「一万人体制」が破綻することは目に見えている。

 全体として、様々な教育課題を列挙しながら、そこには学校教育の基本である「教科を教えることを基本とする教員養成」論はまったく見られない。いたるところに「教育学部らしさ」「教員養成学部の独自性」が一面的に強調され、教育のみならず研究においても「教育学部らしさ」を求めている。それは「教師には深い学問は必要ではなく、教え方の優れた技術者であるべきだ」というような底流にある主張のもとに、学問・研究と教育を分離し、教員養成学部から学問を切り捨てようとするものである。

 新課程についていえば、「原則として教員養成から分離していくことが適当」とし、教員養成学部内での両課程の単純な分離は「教員養成の弱体化を招く」としている。ところが一方、「教員養成学部に置かれている目的の異なる課程(教員養成と新課程)、それぞれの特色を発揮できるようにしていくことがもとめられる」とものべられている。一貫性のない方針で、新課程を翻弄している様が現れている。

 懇談会の議論や報告書には、教員養成に対する理念や哲学がなく、「始めに結論ありき」の姿勢であり、一面的考えの規模や枠組みが先にあって、「在り方」をその理由付けにしているといわざるをえない。
 そもそもことの発端は、すでに破綻した文部省(文科省)の目的養成・計画養成政策にある。文部省は戦後の「大学における教員養成」の大原則を「『教育学部・教育大学』への名称変更」(1966年)や教育職員免許法の改訂と行政的介入を通じて形骸化させ、「国策による計画養成」に固執してきた。「在り方懇」の結論はさらに一層閉鎖的な教員養成システムを構築しようとしている。教員養成系大学・学部の研究・教育の諸問題の根源は、教育職員免許法の"縛り"、即ち「教免法に規定された授業科目を履修する場」であるというところに存在する。しかしながら「在り方懇」は教育職員免許法に対してまったく無批判である。本来、教育学部は「広く教育について研究・教育する場」であるはずなのに、それが制度の縛りによって果たされないところから諸問題が生じている。

 今日、多くの問題を抱える小学校から大学までの教育について、実践的に研究・教育する場として、教育学部はきわめて重要な役割をもっており、今こそ縮小ではなく強化しなければならない。教育学部の問題を特殊閉鎖的な問題として捉えたり、ましてや他学部の"草刈り場"とするのは論外である。教育学部の強化が大学全体の強化にもつながることを確認し、教育学部と他学部との連携・補強の検討が今こそ求められている。
 しかしながら、教員養成系大学・学部が国立大学の法人化に向けた"草刈り場"になって、大学の統合・再編が進む可能性が濃厚であり、「遠山プラン」で統合・再編の真っ先に掲げられていることでも明らかである。
 最近の一連の報告書のように、文部科学省が大学を直接「指示」「拘束」するのは、かってない由々しき事態であり、大学の自治と学問の自由が骨抜きにすることに他ならず、われわれはかかる危機に手をこまねいて従属することはできない。今回の報告書に見られるような国の教員養成政策の失敗のつけを、地方に転嫁するという乱暴きわまる教育破壊政策を、広範な大学関係者や国民の力で断固阻む必要がある。「遠山プラン」に代表される一連の高等教育政策は近い将来必ず行き詰まるであろう。そもそも「教育の効率化」で国が豊かになった国家はいまだ存在していないことを銘記すべきである。