JSA

2001年10月29日
文部科学省高等教育局大学課大学改革推進室 御中


『新しい「国立大学法人」像について(中間報告)』に対する意見

日本科学者会議大学問題委員会

はじめに

 9月27日に、「新しい『国立大学法人』像について(中間報告)」が発表されたが、そこに描かれた大学像は、独立行政法人通則法を前提としながら、いわゆる「遠山プラン」で言うところの「民間的発想の経営手法の導入」をはかり、「最終的に国が責任を負うべき大学」として国立大学を法人化(「国立大学法人」化)することがめざされている。その本質には、国家から「独立」する大学の方向とは正反対の、国家に「従属」する大学づくりが反映している。この方向で大学改革が展開すれば、日本の大学と社会の在り方を根本的に転換するとともに、大学における学術研究は奇形な発達を呈して全体的な基盤を弱体化させるだけでなく、長期的視野において国民の教育・健康・福祉・文化・環境などの保全・前進に責任のもてるエリートさえ充分に養成されない危惧を禁じえない。
 制度設計の基本に関わる重大な問題に限定して、日本科学者会議大学問題委員会の意見を表明する。

1 独立行政法人通則法に沿う「国立大学法人」化
 「中間報告」では、「大学の自主性・自律性」という表現が多用され、「国立大学評価委員会」(仮称)による大学独自の評価方式の採用や学長選考に関して学内選考機関を認め、兼業の規制緩和を提言するなど、大学の独自性に配慮し、大学の閉鎖性を打破するかのような記述がみられるが、その本質は、独立行政法人通則法の枠組みを一歩も出るものではない。国立大学の独立行政法人化には、「自治と自由」を保障し、教育公務員特例法に定める制度的身分保障などを維持できる、通則法とは異なる制度設計が不可欠であると指摘されてきた。しかし、「中間報告」では、大学は、高等教育・学術研究に関わる「国のグランドデザイン」に従属する形で個別の長期・中期目標を定め、外部者の関わり「民間的経営手法」が導入されるトップダウンの管理的方式でこれを実施し、外部者による業績評価の結果によって、運営交付金が査定されるという仕組みが採用されており、通則法のシステムと何ら変るところはない。
 「中間報告」に見られる「大学の自主性・自律性」は、表現と内容の一致を欠いた実態のない虚しい表現でしかない。
 
2 "財界下請研究機関化"する大学
 学術研究・教育活動は「自由と自治」に基づいてこそ、その豊かな発展があるという本質的な性格において、大学の運営と教学は密接不可分な関係にあり、その両者が「大学の自主性と自律性」に基づいて発揮されることが必須の条件である。
 しかるに、「中間報告」は、学外者を参画させた「役員」組織を管理運営の中枢におくとともに、多数の学外者を擁する「評議員会」、「運営協議会」、「運営諮問会議」などを設置して、学長を「最終責任者」としてドップダウンの大学運営意思決定システムをつくることを構想している。この構想においては、大学の経営と教学を分離して、評議会や教授会の権限を剥奪しようとする意図も見え隠れしている。
 「中間報告」は、「国立大学が本来果すべき使命や機能を、いかに従来以上に十全に実現させ得るか」の検討が必要であると強調する。大学が、その研究・教育機能を、国民に限らず広く人類世界の発展と平和のために十全に発揮する役割を果たすべきことは、論をまたないことであるが、そのことは、とりもなおさず、特定の国家利益や特定の利潤追求にのみその機能を発揮すべきではないことを意味している。もとより、学術研究の成果と教育の機会と学習の権利は、すべての人々に向け開かれていなければならないものである。
 しかるに、「中間報告」の言う「社会に開かれた運営システム」は、大学を特定の企業利益や国家目的遂行に積極的に奉仕させるものとして機能する懸念をはらんでおり、これが、本年六月に文部科学大臣から提示された「大学を日本経済活性化の起点」とする産学連携の政策と 結合して展開すれば、その危惧は一層憂うべきものとならざるをえない。「国立大学法人」は、「国家従属法人」と化すだけでなく、「財界下請法人」となる惧れをはらんでいる。

3 教育公務員特例法を逸脱した人事制度
 「制度設計の方針」として提示されている「大学における人事の自主性・自律性」の部分で、 「大学の自治」の基本は、「自主的・自立的」な人事にあると指摘する。そのことを受けて、「法人化後は、教員などの人事に関する基準・手続きは、法律で定める事項を除き、大学内部の規則として定められること」として大学の自主性に委ねられるかのように表現し、「教員などの任免等の人事制度については…検討が必要」と明言を避けている。
 大学が「自由と自治」によって運営される保障となるのは、教育公務員特例法による人事権の独立性と公平性の国家的基準性であり、それを継承できるかどうかが独立行政法人化制度設計の重要な要素であった。しかしながら、「中間報告」後半の「人事制度」においては、その「自主性」は、能力主義的な業績評価制度、主務大臣が「不適任」と判断する学長の解任制度、学長による事務職員の採用・昇格に関する一元的管理など、教育公務員特例法を大きく逸脱する人事制度が構想されている。
 さらに、教育・研究ばかりでなく、事務労働にも競争的原理と評価が導入されることが提起され、「教職員の多様な活動を可能」にしようともくろまれている。しかし、「高いモラールを維持できるように」、「多様な職種を自由に設定でき」る「柔軟な人事制度の構築」は、多くがパート労働化によって維持され、限られた人員で多様な業務をこなさなければならい過密労働の現状を前提にする場合、教職員の労働条件は個別大学で多種多様になって公平性は保障されず、むしろ、「高いモラール」性を荒廃させる職場をうみだしかねない。

4 研究・教育を荒廃させる多重な「第三者評価」 
 大学の研究・教育の成果は広く情報公開されるべきではあるが、「中間報告」の要求するアカウンタビリティは、大学の評価機関、すなわち、政府に向けられる設計となっており、広く国民に向けられる性格のものとなっていない。「はじめに」で述べる「国民に支えられ、最終的に国が責任を負うべき大学」の姿がそこにも反映している。「国民に支えられ」るための制度設計に関しては、学外者の大学運営参画以外に言及されておらず、教育基本法第10条の法規範にも反する構想である。
 さらに、大学の業績は、総務省の評価委員会、国立大学評価委員会、大学評価・学位授与機構などと幾重もの「第三者評価」にさらされ、その査定に基づいて運営交付金が算定される仕組みとなっている。膨大で複雑な内容と広がりを有する教育・研究活動は、もとより計測的に評価できるものでも、また、客観的な指標が存在するものでもない。しかるに、すでに、中期目標・中期計画のモデル案で示されるように、「第三者評価」が可能な評価項目に適合する中期目標・中期計画の内容設計に傾斜せざるをえないのであり、また、目に見える評価を示しやすくするために、数値化できないものまでも数値化する計画設定にシフトせざるをえないという本末転倒で珍妙なことが発生することは想像に難くない。それはとりもなおさず、教育・研究を評価のための事業に傾斜させ、自由で豊かな研究発想と展開、そして創造性豊かな人間を育てる行為を排除する大きな枠組みとして機能することになる。

おわりに
 「中間報告」は、「21世紀は『知』の時代と言われる」と書き出されている。先進諸国は、「知」の新たな創造基盤の拡充とそれを支える全体的な学力の向上に向けた諸政策を展開している。豊かな「知の創造」は、研究者が安定的に自由な発想と関心を展開でき、それを支える公的財政支援が安定的に保障され、かつ、それを未来において継承できる学生の豊かな感性と能力の育成が伴わなければならない。日本の大学が、「知の世紀」の創造と継承の拠点として社会に果たす固有の責任は、「大学の自治」、「学問の自由」、そして「学生の教育を受ける権利」が充分に保障されるところで発揮される。
 時間がかかる地味な基礎的研究や研究者を養成する長い道のりは、短期的な経済効率性や実利的観念の世界からは非効率なものと映るであろうが、教育・研究活動はその本質において、経済論理にはそぐわないものである。むしろ、それは、長期的な国家展望において、さまざまな領域における人類の進歩や経済活動の活性化に大きな貢献をなすことのできるものであって、知的エリートや創造的研究業績も、裾野の広い研究教育環境のもとではじめて豊かに形成されるものである。 
 「50年間でノーベル賞受賞者を30人」出すとする政府の意気込みに対し、ノ―ベル化学賞受賞の野依良治名古屋大学教授は、「学術は芸術と同じで、自分が一番面白いと思うものに全力を尽く」すもので、「賞は狙ってとるものではない」く、大学の機能は研究と教育であって「大学が全面的に産業界に貢献すべきだとする議論は、まったく違う」と産学連携を厳しく批判している(「朝日」10月17日)。科学技術政策の基本的問題と未来の破綻を予言する卓見であろう。
 OECD諸国の中でも、GDPに占める高等教育予算の格段と低い状況の中で、文部科学省の来年度概算要求においては、一般会計から国立学校特別会計への繰り入れは、わずか0.9%の伸びしかなく、基礎的教育・研究経費や学生・教員当たり単価は据置きのままという貧困な政策が継続されている。競争的資金の重点的投下によって「高度化」される一部の研究分野・大学に対し、クーラー設備もない教室で授業を受けざるを得ない
大学が多くあるという貧困な勉学・研究条件の基本的な改善が緊急に必要である。学問と研究の裾野が拡大・充実することに対応して創造的研究や優れた研究者が輩出されることは、多くのオリンピック選手を輩出するには、幅広いスポーツ活動の展開とそれを保障する環境の整備が必要とされることと同じ道理である。
 「自治と自由」を剥奪され、競争的環境の中で「第三者評価」による業績査定というシステムの採用は、大学の再編・統廃合を加速し、全体的な淘汰競争を苛烈なものに導くことにおいては成果を果すであろうが、長期的な視野において、人類の知的遺産の継承や日のあたらない地味な研究・教育機能は弱体化、ないし衰退するという「知的荒廃」を導くであろう。
 「知の世紀」の創造と継承の拠点として大学が社会に固有の責任を果すには、「学問の自由」、「大学の自治」と「学生の教育を受ける権利」の保障、そして公的財政支援の拡充が必須の条件と主張することは、決して古典的命題の繰り返しではなく、ユネスコの最近の高等教育に関する勧告や宣言にみられるように、「知の世紀」に向かう国際的趨勢なのである。